みんなにとっちゃどうでもいい出来事
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大学4年の冬。 俺が何気なく下のでテレビを見ていて、「さて」と2階に上がろうとしたときにおじいちゃんがすっと来た。 「おじいちゃん今日病院行ってきたんだ」 上にあがろうとしていた俺に話しかけることからしても、非日常的だった会話。 「どうして?」 「なんか最近貧血するんだよな」 「そんで色々検査したら、まだわかんないけど胃にできものがあるらしいんだよ」 「まだみんなには言ってないんだけど、入院するかもしれない」 「マジで?」 さらさらと言葉に出していたが俺はガンではないかと感じた。 「俺からみんなに話すから」 「今年の正月は家で過ごせないかもしれない」 「そっかぁ・・・・」 今まで風邪もひいたことがなかったおじいちゃんに、掛ける言葉が見つからなかった。 「今まで医者にかかったことなんてなかったから」 俺の気持ちを察した様に沈黙を破った。 「わかった」 頑張ってねと言えたか定かではないが、優しい言葉を口にすることが苦手な血筋らしい。 兄弟に中で一番に俺に話したことからも、「長男として家を任せた」 みたいな意味合いがあったのかもしれない。 俺にはおばあちゃんが風邪で入院したくらいの事の大きさにしか考えてなかった。 まさか戻ってこられないなんて。 留年してでも、我孫子に残っていれば良かったと後悔している。 その後高坂に戻り卒研を続けた。 正月に俺は我孫子に帰ってきた。 卒論に終われ12月31日になっての帰宅だった。 おじいちゃんの状態はあまり芳しくなく、俺の手を握っては 「よく来てくれた」 と涙目に握りつづけるのであった。 車椅子乗ってもらって、病院内を散歩に出かける事になったときも 俺に手で左右を指示し、富士山の見える窓へ紹介してくれた。 「晴れてる日は富士山が見えるんだ」 お母さんに前に教えてもらった事を教えてもらい。 「すごいねぇ」 と初めてのように感心した。 言葉の音量が極端に小さくなったため、書く事による意思疎通を試したが (ペンが重たくて、書くたびに小さくなってしまう、おしまい) とホワイトボードに書き天然振りを披露してた。 寂しいとは一言も聞いた事が無いが、病気をしたことのない人が 個室で過ごす夜はどれだけ孤独であったか推測できる。 体の自由が利かない中ではさらに大きいものであったに違いない。 おじいちゃんはリハビリセンターに移ってからも、微熱を続けた。 俺は風邪によるものだと考えていた。 でも実際は違った。 歩く練習といってもその環境はとても悪く、おじいちゃんの体は入院前のそれより衰えていた。 大きなのこぎりを引く腕や、刷毛を持つ手、襖を持ち上げる腰や、くぎを打つ指は細く浮腫んでいた。 それでも 「昨日は雨が降ったんだ」 「86にもなってこんな思いするとは思わなかった」 「大変だ」 俺が骨折してまだ靴を履く事が困難な時には「俺のサンダル履いてけ」 「帰りに靴買ってもらえ」 と、入院前と同じ視線から物事を見て俺にかすれた声で話す様子は、 おじいちゃんの強さと頑固さとやさしさが見えた。 体は病んでも心まで病むことはとうとう無かったのだ。 「早く家に帰りたい」 それがおじいちゃんの一番の栄誉だったのではないか。 俺が一人暮しをして1年間空けた「家」 そこにはどれだけの魅力があったのだろうと考える。 小さい頃から「家族何人居るの?」「7人家族だよ」と答えていたから 7人という数の持つ安定感が崩れてしまって、「家」の中は未だにバランスが悪い。 小さい頃見たおじいちゃんの仕事をする姿と、横で遊んでいる自分がセピア色になって 未だに頭から離れない。 「僕は夏休みなのに、おじいちゃんはいつも仕事しててかわいそうだね」 「遊びたくないの?」 「おじいちゃんは仕事が遊びなんだよ」 「だからおじいちゃんは毎日遊んでるけど、〇〇君は学校で勉強してるから偉いね」 なんでキチンと飲みこむ指導を病院はしてくれなかったのだろうか。 素人は普通に食べさせてしまう事を前提にして、俺達を指導してくれなかったのか。 不満は残る。 医者で無かった自分を後悔した。 何学校で学んだんだろう。 今となって言えることは 何するわけでもなく一緒にいる時間をお互いが持つ。 それで十分孝行だ。 |